日暮れ時の霊岸橋である。
春も桜の咲く頃となれば日もすっかり長く、
それでも夕刻の忙しさの中、道を行く人はその足を止めることはない。
市中見廻りの帰路、橋に差し掛かった北町奉行所定廻り同心、
ロイ・マスタングは欄干にもたれる小柄な人影に気づいた。
「おい」
つれていた中間に声をかける。
「お前は先に戻れ。今日はこのまま帰宅する」
「かしこまりました」
橋の上になじみの女でも見かけたのだろう、と中間はそのまま
視線をさげ、足早に橋を渡って行った。この旦那にはいつものことだ。
欄干から川の面を見下ろしているのは小柄な少年だ。
剣術稽古の帰りと思しく筒袖の稽古着に袴をつけ、
袋に入った竹刀を担いでいる。
欄干の上でだらりと重ねた右の腕は機械の義肢だ。
「鋼の」
背後から声をかけると大儀そうに振り返った。
「ああ、あんたか」
そのまますぐに視線を川に戻してしまう。
何を見入っているのか。
取り立てて変わった景色が見えるわけでもない。
暮れかかった日が水の面に杏色の輝きを落としているに
過ぎないようだ。
「昨日は遅くにご苦労だったな」
昨夜は京橋の蘭学者の家で捕り物があった。薬種問屋の主と組んで
不正を働いていた現場を押さえたのだ。ロイの下で小者として
務めているこのエドワードにも呼び出しがかかったのである。
「怪我を負うたようだったが、今日の出稽古は大丈夫だったか」
「こんなの、なんともねぇよ」
無意識に生身の左腕のほうの袖をひっぱる。
彼は定廻り同心の小者を務めながら、弟と居候をしているさきの
道場主を助けて出稽古に出たりしている。背丈は小さいが、
組み手などの鍛錬もしているので身体能力に優れ、
背丈は不利にならないほどの腕前だ。
年端のいかない少年が同心の小者をしているからにはわけがある。
錬金術が使えるのだ。江戸市中でおおっぴらに使って見せるわけには
いかないが、同心の手助けをするには願ってもない特殊能力だ。
奉行所もそれをわかっていて、この幼い小者を黙認している。
「今年の桜も終わりだな」
視線はそのままに、少年がぽつりとつぶやく。
ああ、桜だったのか。
見れば川岸から大きく枝を広げる桜がその花びらを川面に散らし、
枝には若草色の葉が目立ち始めている。
人体練成という錬金術師の禁忌を犯して己の右腕、左足と
弟の身体を失うという大変な過去を背負った少年だった。
その失ったものを取り戻すために、賢者の石という伝説級の宝玉を
手に入れようと決意をしてから、
いったい何度目の春が過ぎたことだろう。
「いつになったらオレたちは…!」
最後のほうは苛立ちで言葉にならない。
今回取り押さえた蘭学者からも何か得られるものが
あるのではないかと期待していた。その矢先に捕り物の場に
居合わせたことも気持ちの落胆に拍車をかけているのだろう。
「あんなエセ蘭学者、気にするな」
欄干に並んで立つ。
「気にしちゃいねぇよ。だけど」
「深入りしないうちにしょっ引いちまって良かったんだ」
エドワードの大きなため息。
「あのさ、オレ、自分たちで長崎へ行ってみようかと思ってるんだ」
蘭学を志すものが目指す土地。南蛮との交流があり、
情報が得られやすいのではないと考えているのだろう。
が、何の伝もなく、いきなり行ったところで、
また、今目の前で見ている同じ落胆が繰り返されることだろう。
彼らの処遇を気にかけ、何かにつけて面倒を見てしまう
ロイ自身にも、彼を送り出すことには抵抗がある。
自分の小者になって賢者の石を探したらどうか、と持ちかけたのは
彼自身だ。かといって今の職務を離れてついていってやるわけにも
行かない。出世の野望が彼をこの地にしばりつけるのか。
「その話は」とエドワードの頭に手を置く。
「おまえさんが江戸中をしらみつぶしにして、
何も出なかったときに改めて聞くとしようよ」
「子ども扱いしやがって」頭上の手を振り払う。
立派な子供なのだが。生意気な口をきくのは毎度のことだ。
「こんなところにいつまでもいると身投げをするのかと思われるぞ。
腹が減っているんだろう?何か食いにいくか?」
図星だったようだ。ニカッと笑う。
「父上!父上が行きつけの軍鶏鍋屋へ行ってみたいです!」
往来で親子のふりをするのは彼の常套手段だ。
いつの間にそういうことを知っているんだ、このガキは…。
苦笑しながらも少年の背を押して歩き出す。
夜の帳が降りはじめていた。
居酒屋(その1)